電子的ヒトリゴト

心理学が好きなゲイのブログ。主に読書、独り言、心理学、SOGIなど

LGBT疲れ

 最近、僕はLGBT*1に疲れている。ここでいうLGBT疲れ*2は、セクシュアルマイノリティ(以下セクマイとする)であることそれ自体に伴う1次的な疲れではなく、2次的な疲れを指している。すなわち、よく言われるような、同性愛者が異性愛者を偽るために嘘をついたりすることによる疲れではなく、それより一歩進んだ形の疲れを指している。

 僕が感じている2次的な疲れは主に2つある。1つ目が、セクマイという共通項だけで対人関係を維持していることによる疲れである。セクマイはまだまだ社会的に阻害されている存在である。そのため、セクマイ同士でコミュニティを形成することによって、その1次的な疲れを緩和しようとする。僕の場合、最初はそれでよかった。似たような経験をしている者同士、共感できるところが多く、孤独感や疎外感が大いに癒されたし、救われた。しかし、セクマイのコミュニティに長く安住していると、自分のマイノリティ感覚が薄れ、セクマイという共通項だけで対人関係を維持することの限界を感じるようになった。たとえば、異性愛者で考えてみると、対人関係を維持することの理由が「相手が同じ異性愛者だから」ということの不思議さがわかるであろう。

 つまり、セクマイのコミュニティはマイノリティであるという外的な基準によって結びつきを強要されているが、セクマイのコミュニティに安住すると自分のマイノリティ感覚が次第に失われ、内的な基準によって結びついていない関係から離れたくなる。しかし、セクマイのコミュニティから一歩離れれば、そこはマジョリティの世界であり、自分のマイノリティ感覚が強まってしまう。そして、最初に戻る。僕は、社会的にマイノリティであること自体にも疲れを抱くが(1次的な疲れ)、そこから逃れるためのコミュニティの中でも疲れてしまうのである(2次的な疲れ)。本当はマイノリティ感覚に伴う孤独感や疎外感を強めることなく、内的な基準によって構築される対人関係があれば良いのだが、なかなか厳しい。

 2つ目が、セクマイのコミュニティで頻出する批判的な意見や主張に触れることによる疲れである。セクマイのコミュニティ(現実・インターネット問わず)にいると、批判的な意見や主張をよく目にする。マイノリティであることによる社会的な障害を取り除くために、現状に対する批判的な意見や主張をすることは大切だと思うのだが、それに頻繁に触れすぎて、知らないうちに疲れてしまう。

 以上が、いま僕が感じているLGBTに関する2次的な疲れである。考えてみれば、これらはセクマイだけでなく、ほかのマイノリティにも当てはまる。また、これらは僕の内向的なパーソナリティによる部分が多いと思う。

*1:レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの略で、主にセクシュアルマイノリティを指して使われる言葉。

*2:セクマイ疲れではなく、LGBT疲れとしたのは、キャッチーだからである。

鎌倉に行った(神社と古本)。あと少し江の島

神社

 鎌倉の神社を6つ巡った。1つ目が鶴岡八幡宮。

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 2つ目が荏柄天神社。

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 3つ目が鎌倉宮。

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 4つ目が佐助稲荷神社。

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 5つ目が銭洗弁財天宇賀福神社。ここの特定の場所でお金を洗うと何倍かになるらしい。僕は500円を洗った。1万円札を洗っていた人もいた。クレジットカードを洗っていた人もいたようで(!)、不思議だった。

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 6つ目が葛原岡神社。ここは縁結びの神社のようで、若い女性が結構いた。絵馬がハート型になっていてかわいかった。

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古本

 鎌倉の古本屋を3店舗巡った。買ったのは以下の1冊。値段は100円。

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江の島

 少しだけ江の島に行った。

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 この場所を見ると、アニメ『TARI TARI』と『つり球』を思い出す。懐かしいなあ。

古本を買った(渋谷大古本市に行ってきた)

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 渋谷大古本市に行ってきた。看板の写真を撮ったはずなのだが、なぜかファイルがなかったので、現地の写真はない。

 人が結構いて、賑わっていた。 ここで僕は以下の本を買った。

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 7冊で合計4000円ぐらい。

 次に、神田神保町の古本屋に行った。 そこで以下の本を買った。

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 7冊で合計1300円ぐらい。

感想

 僕は基本的に図書館を利用するが、本を買うときはamazonを利用していて、あまり古本屋に行かない。行ったとしてもブックオフ。そのため、古本の見定め方・買い方がまったくわからなかった。とりあえず、興味を持った本の中でも、読んだあとに文献として手元に置いておく価値がありそうな本を買った。値段に関して高いのか安いのかよくわからなかったので、amazonで売られている古本の値段を参照しながら、良心的な価格なものを購入した。経験を積んで、古本の見定め方・買い方を確立したい。

 また、現実での古本屋・古本のイベントにインターネットにはない良さを感じた。それは、一覧性・偶然性・有限性が高いことだと思った。人によっては、このほかにもコミュニティや空間としての価値があると思う。

ブックエンドが良い

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 いわゆる本立て。次に読むべき本や論文を分かりやすくするためのブックエンド。読むべき本や論文を収納する。積んで置くよりも一覧性が高く、手に取りやすい。しおり代わりのメモ用紙を近くに配置する。

 

カール事務器 ブックエンド 大 LB-55-E ダークグレー

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マジックワードに陥らず、一緒に考えよう

 僕はあなたと一緒に考えたい。対話を重ね、考えを深めたいのだ。

 この世には、マジックワードというものがある。はてなキーワードでは以下のように説明されている。

 人をあたかも魔法のように思うように動かすことができるキーワード。主に意味が曖昧で、使う側の思想によって便利に扱うことが出来る言葉や幅広い意味を持つ呼称(特に蔑称)を指して呼ばれている。具体的な中身を伴わない主張をする際に都合良く用いられることが多いため、一部では使用すること自体も嫌われている節がある。

  『知的複眼思考法』の中で、マジックワードの具体例として「生きる力」「人権」「合理化・効率化」などが挙げられている。これらを使うことによって、「何となくわかったつもりになる」場合が少なくないという。

 僕はマジックワードがあまり好きではない。なぜなら、それは使う人の思考を奪うだけではなく、同じ場にいる人々の思考さえも奪うからである。上記で挙げた具体例とは少し異なりフレーズになるが、思考停止気味に「価値観は人それぞれだからね」と言われることがある。たしかにその通りだ。ぐうの音もでない。しかし、そんなことはすでに自分の考えにある。僕は、たとえそこが最終的なゴールだとしても、そこに至るまでのプロセスを通して考えを深めたいと思っているのだ。マジックワードは便利で最強だからこそ、それが発せられれば、その場にいる人は何となく分かったつもりになって終わってしまう。

 LGBTコミュニティにいると、「多様性」という言葉をよく目にする。多様性という言葉は本当に便利だと思う。「多様性を認めてほしい」と主張する当事者がいるが、僕はそんなこと言えない。それを言おうとすると、常に「自分は多様性を認めているのだろうか」と考えてしまうからだ。ある意味では「多様性を認めてほしい」と主張することは大切かもしれない。しかし、一方的に「多様性を認めてほしい」と言うのではなく、「多様性を認めるとはどういうことか」、「どうしたら多様性を認められるようになるのか」を僕はみんなと一緒に考えたいと思っている。

 僕は「自分の頭で考えよう」とは言わない。すでにそれがマジックワード化していると思うし、僕もマジックワードに陥ることがあり、自分の頭で考えている人間とは言えないからである。代わりに、なるべくマジックワードに陥らず、僕はあなたと一緒に考えたい。

 

知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ (講談社+α文庫)

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ステレオタイプはどのように維持されるか『ステレオタイプの社会心理学』

 

ステレオタイプの社会心理学―偏見の解消に向けて (セレクション社会心理学)

ステレオタイプの社会心理学―偏見の解消に向けて (セレクション社会心理学)

 

  本書は、ステレオタイプに関する研究を概観した本である。心理学的な知見に基づきながらステレオタイプについて論じられている。

 ステレオタイプは、誰もが、誰かに向けるものであり、誰かから受けるものである。それは、時として偏見になり、社会問題へと繋がる。偏見に関して、受ける側は敏感であるが、向ける側は鈍感かもしれない。そのため、すでに偏見を誰かに向けているかもしれない。そのような意味で、ステレオタイプについて考えることは重要である。

 ステレオタイプといえば、ひと昔前に血液型性格判断が流行った。心理学界隈では血液型と性格の関連性はないという結論が出ているのであるが、今でもたまに「高橋くんってA型?」って訊かれる。どうやら私は几帳面と思われているらしい。残念、O型なのです。wikipediaにはブラッドタイプハラスメントというワードがあるようだし、気をつけたいところである。

 こうも、なぜステレオタイプは維持されるのだろうか。初めにそのメカニズムについて述べ、次に全般的な偏見の低減方法として接触仮説について述べる。

2つのステレオタイプ維持のメカニズム

 本書の中では、ステレオタイプを維持するメカニズムとして2つの要因を取り上げている。1つ目が、仮説確証型の情報処理傾向である。2つ目が、ステレオタイプの自動的活性化である。

仮説確証型の情報処理

  前提として、人には、ある信念をもつとそれと一致する事象が生じると予期する傾向があり、その予期に従って新しい情報を探索し、解釈する傾向があるという(p.46)。いわゆる確証バイアスだと思われる。本書の例がわかりやすい。

 たとえば、「A型は几帳面」というステレオタイプをもっていると、A型の友人の几帳面なところ(例・・・ノートをきれいな字で書いている)に注目しやすくなります。その一方で、その友人の几帳面でないところ(例・・・部屋が汚い)などは見逃されがちになります。その結果「A型=几帳面」というイメージのみが確認され、「やっぱり血液型性格判断は当たっている」と考えやすくなるわけです。(p.47)

ステレオタイプの自動的活性化

  こちらは前提として、知識は、内容的に近いもの同士がまとまり、ネットワークを形成していると考える。このネットワークにおいて、ある知識が活性化されると、それに関連する知識が活性化すると想定されている(コリンズとロフタス、1975)。いわゆる活性化拡散モデルである。ステレオタイプに関しても同じように、ある手がかりが与えられると、それに関する概念が自動的に活性化するといった具合である。本書の中で、以下のように述べられている。

 たとえば血液型ステレオタイプをもっている人の場合、初対面の相手が「私はA型です」と自己紹介すると、すぐに頭の中に「几帳面」「神経質」「真面目」といった特性が自動的に活性化されることになります。このため意識していなくても、頭の中に浮かんだそれらの特性を目の前の人に当てはめて、判断しやすいといったことが生じてくるのです(p.64)

偏見の低減に関する接触仮説

接触仮説とは、異なる集団間の成員が接触することにより両者の関係が改善されるという考え方である(pp.119-120)。上記のステレオタイプを維持するメカニズムにより単純な接触は相手の偏見を強めてしまうが、有効に接触することは相手の偏見を低めるという。本書で述べられている、その有効な接触の条件について記す。

これらをまとめると、両者が平等な立場で協同活動をすること、そしてその活動を強く支持するような制度や体制が重要といえるでしょう。その協同活動が十分に行われることで、ステレオタイプ・偏見にとらわれず、個人として相手を見ることができると考えられているのです。(pp.123-124)

ゲイである僕はストレートを好きになるか

 本当は「ゲイはストレートを好きになるか」というタイトルにしたかった。しかし、主語が大きいと誰かに怒られそうなので、あくまでも僕個人の話ということを強調するために、タイトルもそのようにした。ちなみに、ストレートとは異性愛者のことである。

 本タイトルに対する結論から言おう。「今まで好きになったことはないし、今後好きになる可能性は極めて低い」。そう、僕の場合は(ほとんど)ストレートを好きにならないのである。好きになるとはどのような状態か、という定義にもよるため、一応ここでは「特定の人のことを思うと胸がどきどきするなどの一般的に理解されている恋愛感情を抱いている状態」とする。

 基本的に僕はゲイに対して恋愛感情を抱く。なぜ対象が同じ男性であるにもかかわらず、ストレートは好きにならずゲイは好きになるのか。それは、ストレートは決してゲイである僕を恋愛的に好きにならないからである。僕は常にそれを念頭に置いているため、仮にストレートに恋をしようものなら、それは初めから負けが確定しているゲームをするようなものなのである。そんなゲームをしようと考える人なんていないと思う。「しかし、恋は、理性的なものではなく、感情的なものだ」という反論がきこえそうだが、意識的に自覚しているかどうかは別にして、恋愛感情は、相手が自分のことを少しでも恋愛的に好きになってくれるという期待がなければ成立しないのではないか。

 無意識的には知らないが、意識的には僕はストレートに対してそんな期待は持っていない。逆にゲイに対してはある。だから、相手がゲイというだけで僕の恋愛感情ポイントはあがるし、その恋愛感情ポイントは、対象におけるストレートとゲイの質的な差異を生み出す。そのため、ストレートは好きになりにくく、ゲイは好きになりやすい。もちろん同じゲイでも異なる感覚の人はいるだろうが、以上のことは、ゲイを理解するうえで大切なことであると思う。

 ただし、ストレートに対して何か良いなあと思うことはある。この気持ちを区別するために、冒頭で好きの定義を述べたわけだが、この何か良いなあと思う気持ちは、恋愛感情とは質的に区別される前段階の気持ちなのかもしれない。冒頭で述べた”好き”が、狭義の”好き”ならば、こちらの”何か良いなあ”は、広義の”好き”になる。つまりそれは、「好きな有名人は?」と訊かれたときに答えるような、そういう”好き”だ。本記事を書いているあいだに冒頭で述べた結論が変わってしまったが、最終的な本タイトルに対する答えはこうだ。「ストレートに抱く気持ちとして、狭義の”好き”はないが、広義の”好き”はある」。