電子的独り言

ゲイのブログ。主に読書、心理学、セクシュアリティ、雑記など

明日のためのエネルギー

人間は社会的であるためか

人間という生き物に出会うと

 心地よい疲労感と明日のためのエネルギーが生じる

 でも、これはよい場合

 

わるい場合、たとえば大人数のシチュエイション

おなかのあたりから明日のためのエネルギーが生まれ

むねのあたりから抑圧的なパワーがおしよせる

行き場を見失った明日のためのエネルギーは

毒素となって、おなかのあたりに

ぼんやりとした違和感を残しながら

明日に向かうぼくを、せきとめる

ブログを始めた理由

【ゲイブログお題】ブログを始めた理由 - Only you can free yourself.

 

 今更ですが、ゲイブログにおけるお題として「ブログを始めた理由」を書きます。当初は、正直いうと小遣い稼ぎのために始めました(笑) たしか、はてなブログを選んだ理由もソレだと思います。グーグルアドセンスとアマゾンアソシエイトですね。それがやりやすいと思って。その他の理由としては、当初は焦燥感に駆られて手当たり次第に読書をしていたので、読書感想を記事として書いて本の内容を記憶に定着させるためもありました。しかしながら、読書感想を書いても、いまいち記憶に定着しませんね。わずかながらよい点としては、後から検索して自分が書いた情報にアクセスできるぐらい。その程度しか記憶の定着という観点からは意味がないと思います。記憶に定着させたいなら、今ならankidroidを使うと思います。話がそれました。まあ、そんな感じで自分の勉強になりつつ、読書ブログで少しお小遣いが増えればいいかなという感じで始めたと思います。当時はゲイブログではなかったのですね。ゲイブログのグループに入ったのがブログを始めて約1年後です。そのとき、母にカミングアウトしたことや初めてセクマイの友達ができたこと、初めてセクマイのコミュニティに参加したことを皮切りにゲイアイデンティティを明確に持ち始めて、ゲイとしての活動を徐々に始めようとしていました。逆にいえば、それまでは僕は自分がゲイであることを否認していたのです。そんな感じで、このブログは、日記的な側面がメインとなり、主にゲイの人たちを読者として構成されていきました。たぶん。

アー

 将来についてゾっとしてから、真剣に差し迫った問題として人生設計を考えるようになり始めた。今更感があるけど、モラトリアム期間が長かったのかもしれない。自分のこの先を考えると、人生にはいろいろしんどいこともありそうだけど、だからこそ、人を頼るのが上手になっていきそうな感じがする。しんどいながらも、人と支え合いながら生きていく感があれば、今よりも必死に生きている感じがして、幸せであるように思う。

 助け合える仲間が大切とか、視野を広げるとか、今まで陳腐だと思っていた言葉に、心の底から共感できる予感がし始めて、なんだか普通の人になれるような気がして嬉しい。

将来のことを思うとゾっとした

 僕は、大学院への進学を考えている。でも、受からなかったらと思うとぞっとした。不合格と分かってから一般的な就活をするには少し手遅れである。とくに大学で仕事に繋がるような資格も取得しなかった。仮に、大学院のために浪人したとして、それでも受からなかったら、と思うとさらにぞっとする。何の経験もないままどんどん歳をとっていく。そう思うと、30歳ってすぐなんだなという感覚がしてくる。30歳になったら、結構しっかりしてて、大人ってイメージがあったけれど、自分のこととなると、30になっても全然そんな感じになれないかもなあと思う。でも、こういう感覚をもつと、年上の人に親近感が生じる。同じ人間なんだなあっていう感じがする。

 資格って大切だなあと少し後悔した。上記のことを考えたら、少しゆううつになったのと同時に、「先が見えない」というよく耳にするフレーズがナチュラルに口から出て自分でびっくりした。老いを確実に意識した。若いうちに若い人とセックスしたいなとも思った。ハゲたくないとも思った。人生短いと思った。

 まあ、こういうことを考えるから抑うつ的になるわけなので、くよくよ考えずに行動します。でも、振り返る楽しみもあるので、ブログにはメンヘラ的なことを書き込みます。

集団における自分の異質性

 集団にいると、自分の存在が異質に感じる。みんなと前提がまったく異なるような、そういう感覚に陥るのだ。水の中に油があるように、自分がその集団の中に溶け込めないような、そういう異質性を集団の中にいると自分に感じる。

 その感覚を考えてみると、やはりゲイということが大きく関係しているよなと思う。それに伴う内在化されたホモフォビアが根深いのだと思う。つまり、今までの社会的な経験から、同性愛者である自分のことを周囲は異質な存在だと認識するだろうという視点が自分の中に根深くあるのだと思う。

 おそらく、僕は、集団に溶け込みたいと考えている。しかし、集団において僕は自分の異質性を感じるのと合わせて、僕の体験の回避的な傾向(不安や恐れを感じたくないなど)から、積極的に集団に溶け込もうとするという努力ができないでいる。しようとすると、とんでもなく大きい不安や恐れが生じてきそうで、尻ごみしているのだ。一般的にいえば、いわゆる人見知り状態である。

 僕は、そのとんでもなく大きい不安や恐れを感じたくないがために、異質性を感じながらも積極的に集団に溶け込もうとする選択を無視し、別のことで満足感を得ようとしている。たとえば、勉強をしたり読書をしたりなど。でも、その代替的な行為に打ち込んでも、どこまでいっても空虚な感覚が続くだけな気がしている。さらに悪いことに、その代替的な行為に、強迫的に逃げ込むことによって、周囲の人を小ばかにし始めるのだ。イメージするなら、青い鳥症候群的な。または、「お前らとは違うんだ」と教室の隅にいる高校生的な。まあ、すねてる感じになるのですね。全然素直ではない。

 今まで僕は、すねている感じでしたから、集団に溶け込みたいという気持ちすら意識されていなかった。しかし、いずれ、異質性を感じながら、集団に溶け込もうとするときに感じる、そのとんでもなく大きい不安や恐れと向き合うときが来るのだと思う。それは、圧倒されるような感覚だけれど、向き合うときがくるとだけ、なんとなく感覚的にわかる。カミングアウトだって、そうだ。以前は絶対できないと思っていた。仮にするとしたら、耐えられないような感覚におそわれると考えていた。でも、向き合えたのだから、今回のことも、感覚的にそう思う。

 

 これから、どうなるかなあ。振り返ったときに、成長できてればいいけど。

ノンケにきゅんとした

takahashi-blog.hatenablog.jp

 

 概念的な自殺をするために、前髪にヘアピンをつけているのですが、かっこいいノンケに「かわいいね」って言われてちんぽがうずいた。感受性高すぎかよ・・・。その後、その人をオカズにしてしまった。

 (この記事、なんだか気持ち悪いですね)

自分の中に基準を多くもつこと

 自分の中にある基準の数が乏しいと、行き詰る(息詰まる)のだなあと感じた。絶対的な基準は存在しないからだろう。

 自分の中に基準を多く持っている人は、強い気がする。ある1つの基準で自分がダメになったとしても、他の基準で自分が保たれる。たとえば、恋愛でダメになったとしても、仕事があるから大丈夫みたいな。何かに偏っていると、執拗に固執して空回りするし、疲れるし、飽きる。この基準でオッケーなら自分は大丈夫になるというような、絶対的な安定を求めがちになるけれど、実際はその直感と逆なんだね。

 自分の中に基準を多く持っていれば、他人の中にある基準も認めるのが容易くなるような気もする。ある基準に従ってするべきことが緩和されるからであろう。

 

 なんとなく、これを身をもって知った。身をもって知ったことは、人を変えるための素晴らしい知恵でもあるなあ。