電子的ヒトリゴト

心理学が好きなゲイのブログ

書くことの苦しさ

 書くことは概して苦しい。自分の考えを言葉にするときは,どこかしら妥協している。なぜなら自分の考えをそのまま言葉にすることは不可能だからである。もっと上手に書きたい・書けそうと書けないの間をさまよっている。僕はいつも書けないのほうが優勢なので,書かないという選択肢を取りがちだ。しかし,書かなければ書かないほど,文章は下手になる気がする。どの程度下手になるかは別としても,書かなければ上手になることはない。だから,文章を上手にさせたい僕としては文章を書き続けなければならない。達成感もあるが,やはり書くことには苦しみを伴う。

異性性と同性性

 私はゲイである。そのせいかわからないが,一般的に相手が男性より女性の方が話しやすい。しかしながら,私は男性であるから,相手は私に話しかけられてどう思っているのだろうと私は常に考える。具体的にいうと,セクハラや痴漢などが念頭にあるため,距離感が近すぎると嫌がられるかなあと心配してしまう。私にしてみれば,そんなつもりは毛頭ないが,一般的にセンシティブな事柄であるから仕方がない。

 ここまでのことをまとめると,私は女性に対して同性性を感じるが,一般的な場では女性に対して異性性を意識した対応をせざるをえない,ということだ。しかし,あるきっかけによりその問題は解消する。それはカミングアウトである。カミングアウトをすることにより,客観的な異性性と同性性(つまり,生物学的や社会的異性性と同性性)よりも主観的な異性性と同性性(つまり,自分が感じる異性性と同性性)が強くなる。それはおそらくカミングアウトによって互いの認識が一致することで生じると推測できる。

 面白いのが,カミングアウト前は女性に対して異性的な対応をし,男性に対して同性的な対応をするが,カミングアウト後は女性に対して同性的な対応をし,男性に対して異性的な対応をすることである。あからさまに態度が変わるということではないが,意識のうえでは確実に変化していると感じられる。たとえば,ボディタッチのしやすさで考えると,カミングアウト前は女性より男性に対しての方がしやすく,カミングアウト後は男性より女性に対しての方がしやすい。

 ただ,もちろん同じゲイでも違う感覚を持っている人もいる。おそらくその人と私の違いはアイデンティティ発達においてどのような世界を生きているかに起因するのだと思う。私は依然として異性愛者と同性愛者の2つの世界を生きている。すなわち,カミングアウトする前は異性愛者でカミングアウトした後は同性愛者なのである。

内向性は欠点ではない/『内向的な人こそ強い人』

 

内向的な人こそ強い人

内向的な人こそ強い人

 

  私は漠然とした生きづらさを感じている。それが何なのか。私がセクシュアルマイノリティだからなのか。いや,それとはまた別の,何かしらの生きづらさがあるように思う。そして,その正体がようやく最近になってわかった。それは,私の内向性である。

外向性至上主義の呪縛

 なぜ内向性が生きづらさの原因になるのか。それは,社会が外向性至上主義だからである。言い換えると,社会は外向的であることを理想とし,その通念の中で人々が生きているからである。たとえば,人々の中に次のような感覚があると考えられる。パーティ(飲み会)は楽しい,常に誰かと一緒にいるほうがよい,友達が多いほうがよい,活発なのがよい,あいさつは明るく元気よく。これらは,外向的な価値に根差しているため,内向的な人々にとっては疲れるのだ。私自身,社会の理想に合うように外向的な性質を獲得しようと努力してきたが,どこまでいっても元から外向的な人間にはかなわなかった。だから,自分の社会性には欠陥があると常に自分で感じていたし,周りもそのように私を見た。しかし,本書を読んで,それが私のせいではないことを理解した。

内向性を受け入れる

 そもそも内向性と外向性は,脳の活動からして違うようだ。内向的な人の方が外向的な人より刺激に対して脳が活発に働いているという。そのため,あらゆる刺激に対して疲れやすい。これを考えると,外向的に振る舞いきれないのは,私の社会性に欠陥があるのではなく,単にエネルギーを消耗するからである。そして,私が感じる生きづらさの1つに雑談が苦手なことがある。それに関して本書の中では以下のように述べられていた。

互いの考えを話し合うのには興味があるが,ほかの人の動向を話題にするのは,あまり気が進まない。だれかのうわさ話になると,目がどんよりとして眉間に皺が寄り,ほかの人がなぜこんな話をおもしろがるのか知りたくなる。(p.32)

  まったくその通りだった。私は中身がない会話をするのはあまり得意ではないが,互いの考えを話し合うのは非常に好きだ。このように自分の内向性をはっきりと自覚できたおかげで,外向的な社会に迎合することなく,自分の内向性を受け入れることができるような気がした。

自尊感情よりセルフコンパッションを高めよう/『セルフ・コンパッション あるがままの自分を受け入れる』

 

セルフ・コンパッション―あるがままの自分を受け入れる

セルフ・コンパッション―あるがままの自分を受け入れる

 

  一般的に,高い自尊感情はメンタルヘルスの向上をもたらすと考えられてきた。しかしながら,近年,自尊感情の欠点について指摘されてきている。自尊感情の不適応的側面を考えるために,自尊感情は,随伴性自尊感情と本当の自尊感情の2種類に分類されている(伊藤・小玉,2005)。前者は不適応的で,後者は適応的である。

 本書の中では,(明確には言及されていないが,おそらく随伴的な)自尊感情の欠点について強調されている。その(随伴的な)自尊感情は,ナルシズムに似ていて,他者との比較によって優越感を得ることを要求する。つまり,失敗は許されないのである。この点において(随伴的な)自尊感情は不適応的である。その代わりに欠点がほとんどなくて利益が大きいセルフコンパッションを高めようと本書の中では提案されている。

セルフコンパッションの3つの要素

 Neffが定義しているセルフコンパッションには,3つの要素が含まれる。1つ目が,自分に対して批判的な態度を取らず優しく思いやりのある態度を取ろうとする”自分に対する優しさ”である。2つ目が,困難や弱みは自分のみが抱えている問題ではなく人間である以上誰もが体験しうるものであると捉える”共通の人間性”である。3つ目が,自分の経験による苦痛を無視したり誇張したりすることなくバランスよく捉える”マインドフルネス”である。以上の3つがそろってセルフコンパッションとなる。

 メンタルヘルスによい影響を及ぼすセルフコンパッションを高めるために,以下にエクササイズを3つ載せる。なお,本書中のものを少し改変している。

エクササイズ1:批判的な独り言を変える(pp.59-60)

 1.自分が自己批判的になっているときにそれをできるだけ正確に自覚する(どのような言葉を使っていて,どのように自分自身に語り掛けているのだろうか)。

 2.自己判断的な方法ではなく,慈悲的な方法で自己批判の声を和らげるために積極的な努力をする(自分の内なる批判家に対して批判をするのではなく,「改善すべき点を指摘してくれるのはありがたいけど,必要のない痛みを感じます」など)。

 3.内なる観察を,優しく親しみのある積極的な方法で再構成する(たとえば,自己批判的になりそうなとき,慈悲的な友人が何というか想像して,それを自分に言うなど)。

エクササイズ2:自分の定義を解放する(p.80)

 自分の自己判断の対象となる特徴(嫌な特徴)について考え,以下の質問に答える。

 1.その特徴はどの程度の頻度で表れますか。その特徴がみられないとき,あなたは自分を何者だと考えていますか。

 2.どのような状況でその特徴は表れますか。状況によってその特徴が左右されるならば,その特徴は本当にあなたを表していますか。

 3.そもそも,あなたがその特徴を持つようになった原因は何でしょうか(環境,遺伝など)。その特徴の原因が,これらの自分の責任ではない要因が影響しているとしたら,それが本当のあなたを反映していると考えるのは正しいですか。

 4.あなたはその特徴を自ら選択しましたか。ほかに選択肢はありましたか。なかった場合,なぜこの特徴について自分を責めているのですか。

エクササイズ3:日常生活の中のマインドフルネス(p.103)

 1日に1つ,マインドフルネスになりたい活動を選ぶ(歯を磨くとき,朝食を食べるとき,駐車場から職場の建物へと歩くときなど)。

 

<引用文献>
伊藤 正哉・小玉 正博 (2005). 自分らしくある感覚(本来感)と自尊感情がwell-beingに及ぼす影響の検討

同性愛はいかにして継承されるか/『同性愛の謎 なぜクラスに一人いるのか』

 

同性愛の謎 なぜクラスに一人いるのか (文春新書)

同性愛の謎 なぜクラスに一人いるのか (文春新書)

 

  私は子供が好きだ。しかしながら,ゲイであるから一般的なルートで子供を授かり,愛でることは難しい。すなわち,自らの子孫を残すことは不可能に近い。それは生物的に不利ではないか。では,なぜ同性愛は存在するのか。

氏か育ちか

 同性愛ついて回る問題といえば,氏か育ちかの論争である(同性愛にかかわらず発達的な問題においても)。すなわち,遺伝子か環境のどちらが影響しているかという論争である。発達的な問題に関しては,現在は遺伝子と環境の相互作用であるという相互作用説が有力である。では,同性愛はどうだろうか。本書の中で,ベイリーとピラードの双生児研究が紹介されている。その結果は以下のものであった。

一卵性双生児で一方が同性愛者(バイセクシャルも含む)であると,他方も同性愛者である確率は,52%(56例中29例)。

二卵性双生児で一方が同性愛者であると,他方も同性愛者である確率は,22%(54例中12例)。

義理の兄弟で一方が同性愛者であると,他方も同性愛者である確率は,11%(57例中6例)。(pp.67-68)

 この結果からわかることは,同性愛にかかわる遺伝子的要因は大きく影響するが,環境的要因も影響するということである。

男性同性愛遺伝子はどのように増えるのか

 何らかの同性愛遺伝子があることが示唆された。しかしながら,同性愛者は子孫を残すことに対して不利にもかかわらず,平然と同性愛遺伝子は受け継がれているのか。本書の中では,いくつかの説が紹介されている。その中の1つは,トリヴァースによるX染色体に関する理論である。その要点はこうだ。「女の繁殖にとって有利な働きを,X上にある男性同性愛遺伝子が持っているとするのなら,たとえ男性同性愛遺伝子が男の体に存在して彼の繁殖に不利になる働きをしたとしても,その不利を十分に補いうる。だから男性同性愛遺伝子は消え去らずに残っているのだろう」(p.201)。これは,男性同性愛者の母方の女は,男性異性愛者の母方の女よりも子を多く産むことを意味する。つまり,男性愛者自身が子を残さなくとも,母方の女が代わりにとてもよく繁殖してくれているために,男性同性愛遺伝子は淘汰されないようである。

Xジェンダーという性自認/『Xジェンダーって何?日本における多様な性のあり方』

 

Xジェンダーって何?―日本における多様な性のあり方

Xジェンダーって何?―日本における多様な性のあり方

 

  Xジェンダーを知っているだろうか。近年,メディアなどを通してLGBTというワードが多く使用されている。しかしながら,そのメインは,LGBTというワードのとおり,L(レズビアン),G(ゲイ),B(バイセクシュアル),T(トランスジェンダー)であるため,Xジェンダーの認知は依然として低いと考えられる。本書は,日本において初ともいえる,そのXジェンダーを深く掘り下げた本である。

Xジェンダーとは

 Xジェンダーとは何だろうか。本書の定義によると

Xジェンダーとは,性自認*1を表す言葉の一種で,出生時に割り当てられた男性もしくは女性の性別のいずれかに二分された性の自覚を持たず,自己の性別に関し,男女どちらでもない,あるいは男女どちらでもある,さらにはそれすらもどちらでもないといった認識を自己の性に対してもっている人々のことを指す日本独自の呼称です(p.3)

とある。換言すると,Xジェンダーは,出生時に割り当てられた性別とは違った性自認を持ち,それは明確な反対の性別の自覚があったり決めかねて迷っていたりするものではない,という特徴がある性自認といえるだろう(p.26)。

 Xジェンダーにはいくつかの下位のカテゴリが存在する。ただし,本書の中でも念を押しているように,その分類が必ず正しいわけではなく,「Xジェンダーの人々を,無理やり規定の枠に当てはめよう」という意図がないことにご注意いただきたい。あくまでも,これらのカテゴリは,社会に認知させていくためや,自己または他己の理解を助けるためにある。具体的には,現時点ではXジェンダーは5つに分類される。①中性,②両性,③無性,④不定性,⑤その他である。私は初めてこのようなカテゴリがあることを知った。私の中で,Xジェンダーという画一的で漠然としたイメージから,Xジェンダーの中でも多様性があるというイメージへと変化した。そうすると,多様性につきまとう問題であるが,セクシュアリティに頼るのではなく,その人個人の特徴を理解するしかなくなると考えに改めて至る。これは,なんだか,認知的倹約家である人間にとって認知的・心理的な負荷がかかって難しいなあと思う。カテゴリー依存型処理してしまうよね。どうしたらいいのだろうか。

*1:ジェンダー・アイデンティティ。「私は男性/女性である」などの自分の性別に対する認識のこと。

青年期におけるゲイ男性の物語/『しまなみ誰そ彼(1)』

 

しまなみ誰そ彼(1) (ビッグコミックススペシャル)

しまなみ誰そ彼(1) (ビッグコミックススペシャル)

 

  主人公,たすく少年の葛藤などのリアルな心理描写がたまらない。本漫画の主人公は,高校生の要介(かなめたすく;以下「たすく少年」とする)で,ゲイ男性だ。物語は,ある日,たすく少年がゲイ動画を視聴していた履歴がクラスメイトにばれてしまうことから始まる。その後,たすく少年は「お前,そうなん?」とクラスメイトに言われるが,自分を押し殺したように恐ろしい笑みを浮かべながら「兄貴が送ってきた釣り動画だよ」や「バカじゃねーのホモなんて」と言い,必死に隠そうとする。自分がこの学校で生きていくためには,ゲイを嘲笑する側に属さないといけないという思いがひしひしと伝わってくる。そして,たすく少年は,ゲイがばれてしまった思いから飛び降りを試みるが,”誰かさん”と呼ばれる謎の人物に出会い,否定されない場所である”談話室”へと導かれていく。

 上述したやり取りの翌日,たすく少年は,登校しクラスルームに入るのだが,そのとき,クラスメイトに「おはよーホモ――ッ」と言われる。これは,辛すぎるなあ。これを読んだとき,たすく少年を通り越して,読者である私にまでそのダメージが飛び火してきた(^^;)。たすく少年は,そのときも引きつりながら笑顔を作ろうとするのだが,耐え切れず学校を飛び出していく。彼は,複雑に交錯されたさまざまな要因に苦しめられたであろう。たとえば,その要因は,突然学校を飛び出してしまったことによって学校に前のように戻りづらくなることであったり,自分がゲイであることが周囲に広まってしまう恐怖であったり,また,それらの気持ちを抱いていることを家族に知られたくないけど辛いという葛藤であったりだろう。

 Cassの同性愛アイデンティティ形成モデル*1によると,同性愛者が同性愛者としてのアイデンティティを獲得するうえで,――必ずしも全員が直線的にアイデンティティを発達させるわけではないが――初めに来る段階が,アイデンティティ混乱である。たすく少年は,自分がゲイである可能性がありながらゲイを否定するなどの否認的な態度を取っていることからこの段階を経験しているように思える。私もゲイであるが,このような時期を経験したことがある。同性愛に関する話題が身近で出ると,自分のことを言われているような感覚があり,動悸がして冷や汗をかいていた。そして,その場から逃げたり,話を振られると,終始否定的になったりしていた。今思えば,自分のことを一番苦しめていた要因は,他人ではなくおそらく自分であった。すなわち,内面化されたホモフォビア(同性愛嫌悪,または恐怖症)に苦しめられていたのである。これは,サンプル数1の私の経験からであるが,たすく少年も内面化されたホモフォビアに苦しめられているように見える。

 私はあまり漫画を読んでこなかった人間だが,本漫画は非常に良かった。漫画で描かれている心理描写は,私の経験と重なるところもあり,リアリティがある。同性愛者のほかに,その他のセクシュアルマイノリティを含めると,日本において約3~8%近くいると言われている。少なく見積もっても,40人のクラスに約1人はいることになるだろう。遠いようで,身近な問題である。その身近な問題を考えるうえで,本漫画は一読する価値がある。

*1:Cass (1979). Homosexuality identity formation: A theoretical model. Journal of Homosexuality, 4, 219-235.