電子的独り言

ゲイのブログ。主に読書、心理学、SOGI、日記など

ドラマがすごい

www.nhk.or.jp

www.fujitv.co.jp

 

 最近のドラマはすごいですね。セクシュアルマイノリティが良い感じに登場していて、救われる人も多いと思います。僕は上記の『女子的生活』と『隣の家族は青く見える』というドラマを見ていますが、ストーリーも面白い感じです。

 『隣の家族は青く見える』の方のゲイカップルがかわいい感じで、思わず頬が緩みます。にやにやしてしまいます(笑) ドラマは長いので、ゲイが出るシーンだけ追ってみようと思っています。

 

mdpr.jp

 『半分、青い。』という朝ドラでゲイのキャラクターも登場するみたいですね。志尊さんなんかスゴイ・・・。

たぶんHSP

takahashi-blog.hatenablog.jp

 

 上記の記事を書いた。HSPとは、非常に敏感な人のこと。以下の本を読んだ結果、たぶん僕はHSPだと思った。HSPの特徴にほとんど当てはまった。

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

鈍感な世界に生きる 敏感な人たち

 

 

 思い返せば、現在と同じような自分のシャイな感覚は小学生1年生のときにはすでにあったことに気づいた。たぶん、その感じは、後天的というよりも、ある程度HSPとして気質的なものなのだろう。

 いま、HSPという概念を手に入れてから、過去を振り返ると、あれはHSPだからだったのか、ということがいくつかある。たとえば、下着のタグの肌触りが何となく抵抗感がある。下着のタグの肌触りについて、どのくらいの人が気になって、また、気にならないのかがよくわからないため、それがHSPによるものなのか定かではない。しかし、刺激に敏感であるという点からみれば、HSPによるものである可能性は高いと思った。また、シンプルが好きということ。それも刺激が多すぎると疲れてしまうためかなあ。

 HSPは内向性の概念と重なる部分があるため、内向的な特徴もHSPとして考えることもできる。

 

 自分がたぶんHSPと知って、何となく楽になった気がする。他の人と同じように無理に刺激が多いものを楽しまなくていいんだって思える。また、HSPとしての自分が快適に生活を送るために、HSPの適性に合った活動の優先度がかなり上がった。たとえば、ひとりの時間を作ることであったり、読書であったり、瞑想であったり、散歩であったり、内的体験の共有であったり、自然に触れることであったりだ。他にも、よい活動があるか調べていきたい。それらは、HSPとしてこの世を生き抜くために必須の活動なのだ。

目的的と手段的のバランス

takahashi-blog.hatenablog.jp

 

 以上のような記事を書きました。

 僕は、いままで手段的になりすぎていたなーということを改めて感じました。手段的な活動ばかりしていると、「結局、何のための人生なんだ」という気持ちになります。人生は目的的という前提に立てば、それは当たり前です。最終的には意味はないのですからね。そのため、目的的な活動をして、時々立ち止まらないと、心にゆとりがなくなる感じがします。2x2のマトリクスにしてみました。

f:id:takahashi_blog:20180119000440j:plain

 

 人生を生きるうえで、①と④の領域のバランスが大切な感じがします。その比率はどのくらいがいいのかはよくわかりません。あと、②と③は減らしたほうがいいのかもしれません。微妙に違うような気もしなくもないですが、目的的=非生産的=活動の先に意味がない、手段的=生産的=活動の先に意味があると言い換えてもいい気もします。僕はいままで生産的にこだわりすぎていて、自他を評価し、休む暇がなかったような気がします(実際はたくさん休んでいたが、その休んでいるときも、生産的という基準で自分を評価していた)。

 この記事は、目的的かなあ? あーでも、誰にとっての意味なのかによって違うのか。誰にとっても意味がない状態を非生産的とすると、目的的とは違うような気もしますね。よくわかりません!

HSPかもしれないね~

 友人にHSPというものを教えてもらった。HSPは、Highly Sensitive Person(ハイリーセンシティブパーソン)の略で、(程度が高く)敏感な人。wikipediaにページがある。

ハイリー・センシティブ・パーソン - Wikipedia

 内向性との違いがいまいちわからないけど、まあでも、こういう概念があると、事前に生き方を考えやすい。ありがたい。

 これから調べていきたい。

人生は目的的

 人生は目的的だ。日々の生活で手段的な活動に従事していることが多い。しかし、人生それ自体がどこまでいっても目的的なのだ。そう思えると、なんだか人生が開かれたような感じがする。なにをするにしても自由。だって最終的な人生が目的的だもんね。それを見失ってはいけない。手段に固執して、自他を評価し、深刻になるのは本末転倒だ。社会生活を営む上でやらなければならない手段的な活動はあるけれど、時々立ち止まって、人生の目的的な側面に目を向けてみるのもいい。

 つまり、人生は何かの手段ではなく、それ自体が目的なんだ。平たくいえば、人生は遊びなんだ。ここでいう遊びは、ゲームや趣味などの狭義の遊びではなく、広義の遊び。どんな選択もオッケー。そんなに深刻になる必要はないんだね。もちろん、深刻になるのもオッケー。

自分の自己愛を振り返って

 

自分でできるスキーマ療法ワークブック Book 1 生きづらさを理解し、こころの回復力を取り戻そう

自分でできるスキーマ療法ワークブック Book 1 生きづらさを理解し、こころの回復力を取り戻そう

 

 

 最近、セルフヘルプでスキーマ療法にチャレンジしている。使っているのは、『自分でできるスキーマ療法ワークブック Book 1 生きづらさを理解し、こころの回復力を取り戻そう』というワークブック。これは、全2巻ある。スキーマ療法は、自分の根っこを取り扱うため、時間がかかるらしい。著者は、book1で1年、book2でもう1年かけるぐらいのイメージで時間をかけてほしいと言っている。結構長い。

 スキーマ療法をするためのお膳立てであるセルフモニタリングやマインドフルネス、コーピングなどは日頃から行っているので、さらっとおさらいをして、今、スキーマ療法の最初の部分をやっている。0歳~20歳までの経験を感情を伴って再体験しながら外在化する作業だ。これが、なかなかつらい。日常生活でやや抑うつ的な気分になったりした。

 振り返った結果、いろいろな傷つき体験をしたんだなーということが分かった。今、自分の生きづらさに影響した出来事とか、なんとなくわかってきたような気がする。一番、痛感したのが、僕は自己愛が強いということ。今まで、関わってくれた人々に申し訳なくなった。注目されたいとか、自分は特別なんだぞ! という思いに乗っ取られたせいで、周囲の人たちに色々迷惑かけたなあ・・・。

 僕は、小学生の頃、野球をやっていた。小学1年からずっと。それは、自分がやりたいと言い出したのではなく、兄が野球をやっていて親に期待されたのと、さらに、友人もやるといっていたために、やりたくない気持ちとやらざるを得ない気持ちに挟まれていた。時にずる休みをしていたが、嫌々ながらも練習をしていた。もともとセンスがよかったのかわからないが、周囲から期待されていて、頼りにさえされていた。ピッチャーをずっとやっていて、いつも試合に出させてもらっていた。いや~、あのときの経験は、子どもながらにして強烈だったね。大勢の視線が一気に自分に集まるんだもんね。しかも、自分の本意ではなく、期待によって動かされている感じ。残念なことに、期待によって動かされていても、褒められれば嬉しいのだ。だから、その感じが、自己愛を強めたのかもしれないなあと感じる。ちなみに、野球がどれくらい好きではなかったかというと、プロ野球のテレビ中継を1回も見たことなく、選手の名前もよくわからないほどだった(笑)

 まあ、気づけたのは幸いだ。今まで自己愛に気づけなかったために、自分を大きく見せようとしたり、他人の価値を下げようとしたり、それはもう対人関係において大変でした。本当に申し訳なかったなあ・・・。大きな荷物を背負っちゃったなと思いつつ、自己愛を弱めていけるように、建設的に生きていきたい。

 人間の価値は何にも左右されない。身体的魅力であったり、社会的地位であったり、それに伴う他人の評価であったり、何にも左右されないのだ。その競争から抜け出す方が幸せ(well-being)にとっては、よっぽどよい。自分の戒めのために記しておく。最後にアーロン・ベック先生の言葉。

・平凡であれ。平凡なことは大きな喜びとなりうる

・生きて幸福を味わうのに、すべての人からいつも注目や賞賛を得る必要はまったくない

・人の優劣は価値基準であり、いつでも変わりうるものだ

・人はすべて欠点をもっている

・自分の気分に責任を持つようにしよう。人の評価によって気分を左右されるなら、評価に頼っていることになり、抑制不能になってしまう

自己愛性人格障害 (21世紀カウンセリング叢書)より)

 等身大の自分で、イチからやり直す気持ちで生きたい。

ゲイアイデンティティの深化

 約1年前、僕はゲイというアイデンティティを持ち始めた。20歳にして、ようやく本来の自分になれたような気がした。振り返れば、男性へのロマンティックな感覚は小学生高学年のときにはすでにあったことに気づいた。最近までは、中学生で男性へのロマンティックな感覚を持ち始めたと思っていたのだが、まだまだ知らない自分があったのだ。おそらく、振り返ればまだまだ知らない自分はあるのだろう。それは、知らずのうちに自分を偽ってきた結果なのだと思う。そのためか、今でも人が周囲にいると自分の感情が鈍くなる。

 僕のゲイ歴は、かなり浅い。潜在的には長いのだけど、顕在的にはほんのわずかだ。しかし僕にとって、ゲイというアイデンティティは大切である。というのも、このアイデンティティが自分にとって中核的なもので、well-being(幸福)にダイレクトに関連していると感じるからだ。以前の記事で、自分がゲイであるということを忘れると書いたことがあるが、おそらく、それは以前の自分に戻りそうになっているということであって、ゲイアイデンティティの点からみれば、ちっとも深化していない。それはつまり、自分のwell-beingにとってあまりよいことではないと思う。やっぱり、社会的な人間関係において、自分をオープンにするという点から、ゲイであることを知ってもらいたいと感じている。そのほうが、本来の自分として人と繋がれている気がする。会話に変に気を遣わなくていいしね。それぐらいゲイというアイデンティティは、自分というものを示していると感じているのだ。

 そのゲイアイデンティティを1年前に持ち、セクマイに関する情報を集め始めたとき、未来が開けるような高揚感と、ゲイアイデンティティを持ち始める前のような、心ではなく頭で動いている冷静さが自分の中で混在していた。それから1年が経ち、やっと自分の中が落ち着いてきた感じがする。それと同時に、今まで全然気にならなかった、自分の防衛的パターンであったり、脆弱性であったり、ゲイとしての社会的関係の希薄さが目につくようになってきた。一般的にみて、そんなボロボロな自分の今の状態を考えると、自分を偽り続け今まで相当傷ついてきたんだなーと、なんだか心でそう感じる。そう感じられるようになったのは、自分に対して頭ではなく心を使えるようになってきたからかもしれない。これは、ゲイアイデンティティが深化するための兆候なのかもしれないと思った。