電子的ヒトリゴト

心理学が好きなゲイのブログ。主に読書、考察、心理学、SOGIなど

心の余裕ゲージ

 心の余裕が可視化できたら、どんなに便利だろう。「あの怒っている人は余裕がないんだな」とか「いま自分が他人に対して寛容になれないのは余裕のせいだ」とかが客観的に判断できるようになる。そうすれば、「あの人の怒りの原因は、自分の言動じゃなかったんだな」とか「自分はいま余裕がないから少し休もう」とかが理解できるようになる。

 

 心の余裕がないと、人は狭量になる。たとえば、逆を考えてみよう。宝くじで大金を手にしたとき。好きな人に告白して受け入れてもらったとき。それらは、心の余裕があるときだ。そのとき人はちょっとの不幸など気にならない。つまり自分や他人に対して寛容になれる。しかし、心の余裕がないときはまさにその逆だ。些細なことに不寛容になってしまう。

 

 同じ人に対して同じことをしたとしても、その人は怒るときと怒らないときがある。その違いは何か。私は、心の余裕があるかどうかだと思う。怒ったときは、たまたま直前にその人の大切な物がなくなってしまっていたのかもしれない。怒らなかったときは、たまたま最近良いことがあったのかもしれない。

 

 もちろん人の行動は、その人の性格に起因することは多大にあるだろう。しかし、性格ではなく、心の余裕にすべてを求めれば、その人と切り離された何かのせいにできるのだ。つまり、何かをして怒られたときに、「あの人の性格はあまり好きではない」とその人を固定的に見てしまうのではなく、「あの人はいまは余裕がなかったんだな」とその人を流動的に見られる。そうすることで、性格という人の本質的な部分を嫌いにならずに、他人に対応できる。

 

 冒頭で「心の余裕が可視化できたら、どんなに便利だろう」と述べた。しかし、実は可視化されていないからこそ、心の余裕のせいにできる可能性が広がるのだ。だからみんな心の余裕のせいにしよう。そして、自分の心の余裕がないと感じたら、ゆっくり休もう。他人の心の余裕がないと感じたら、そっとしておこう。

最近読んだ本(1)

 今年も終わりますね。時間としてはあっという間に感じるけれど、考えてみたらこの1年いろいろあったなと思います。漢検を受けてみたり、心理学検定を受けてみたり。そしてブログを始めてみたりしました。もう少しでブログ歴1年になるけれど、まだまだ体裁がブレブレです。そのため、昔の記事を見返したとき、恥ずかしくなっては非公開にしてます。来年はそうならないといいんだけどね! さて、最近読んだ本です。

 

経済の考え方がわかる本 (岩波ジュニア新書)

経済の考え方がわかる本 (岩波ジュニア新書)

 

 経済の用語が日常の出来事を例に説明してあって、非常に平易な本でした。その中でも機会費用の考え方が面白かったです。たとえば、何もせずに怠けていたとしたら、本来その怠けていた時間分を働いて得られる収入を失っていることになります。つまり、何もせずに怠けていたとしたら、プラスマイナスゼロではなくて、その時間でできたであろうことを失っていることになるということです。勉強もそうですね・・・・・・。耳が痛い。

 

哲学思考トレーニング (ちくま新書)

哲学思考トレーニング (ちくま新書)

 

  本書は哲学的要素を含めたクリティカルシンキングについて書かれたものでした。その中で、クリティカルシンキングをするときの重要な態度が印象に残りました。それは、「間違えを認めて改める」という態度です(p.236)。そしてそれを達成するために「自分の意見に感情移入しすぎないこと」と「自分の意見に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではないこと」を意識することを挙げていました。これができたらかっこいいと思います。

 

 本書は、論理的な議論の技術について説明するものでした。内容は、ベーシックなもので、この本があれば適切な議論ができるようになると思います。ただ、本書は議論のためのモデルを提示していて、それがトゥールミンモデルと違って著者オリジナルのモデルと言っていました。私がトゥールミンモデルに精通していないため、なぜオリジナルでなければいけないのか、それはどのような効果の違いをもたらすのかがいまいちよく理解できませんでした。議論の技術について、のちのち勉強していきたいと思います。

 

文章は接続詞で決まる (光文社新書)

文章は接続詞で決まる (光文社新書)

 

  本書は、接続詞について例文を交えながら解説するものでした。私はこの手の本が好きでよく読むのですが、本書は個々の接続詞に対する微妙な違いが書かれていて良かったです。たとえば、「しかし」と「だが」は役割としては逆接で同じですが、ニュアンスの違いがあると言っていました。私としては、逆接といったら「しかし」が堅実だと思っていたので、そればかり使っていました。その結果、一本調子になりがちだったので、次回から「だが」も使っていきたいと思います。その他の接続詞についても、バラエティ豊かであり、単調な接続詞の使用を防ぐためのヒントがありました。

 

「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)

 

  本書は、文章の書き方について書かれたものでした。エッセイのように文章に対する著者の考え方が非常に反映されているように感じました。その中でも私が共感したポイントは、自分が伝えたいことが一言で言えるかどうかという部分です。それを自分が把握せずにどうして人に言いたいことを伝達できるのでしょうか。これは基本的なことでありながら、忘れがちなことだと思います。

メンタルモデル?

 私はポッキーを食べようと思い、袋を開けた。ポッキーといえば、片側にはチョコレートがついていない。つまり、そこが持ち手になっているのである。そして袋を開けるときは、取り出しやすいように持ち手側の方を開けるのが普通である。しかし、私はミスを犯した。袋の写真を妄信してしまったがゆえに、持ち手側ではないほうを先に開けてしまったのだ。その後、失敗に気づき、きちんと持ち手のほうを開けた(左の写真)。

 

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 よくよく袋を観察してみると、表面の持ち手側に丁寧に「OPEN」と書いてあるし、裏面にも開け方が書いてある(右の写真)。製作者の気遣いを上手に受け取れずに私は原初的な失敗をしてしまったのである。何かにつけて説明書を熟読する紳士淑女の諸君からすれば、起こりようのない失敗であろう。このような些末な出来事に、気品の違いがあらわれるのである。まさに汗顔の至りと言わざるをえない。

 

 しかし、ここは心を鬼にして私の行為が至極まっとうなものだとしよう。だとすれば、その行為の必然性に何が隠されているのか。それは、「メンタルモデル」である。認知心理学の教科書*1によると、メンタルモデルとは、「こんな風に働きかけるとこんな風に動くという知識」のことらしい。それを今回の件に適応すると、中身も写真と同じように配置されているというメンタルモデルが働いたことになる。

 

  実際、同じような経験をした人はいるのであろうか。今回は単に私の注意不足に起因されたものであるのだろうか。どちらにしても、次からポッキーにおいて袋は持ち手側から開けることができるであろう。

*1:仲真紀子編著 (2010). 認知心理学――心のメカニズムを解き明かす―― ミネルヴァ書房 p.177

パンを買ったら

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 みなさんはこのパンがいくらに見えるだろうか。

 

 私はいつも昼食を食べない――と言うと少し語弊があるが、私にはお昼の時間になったら昼食を食べるという習慣がない。時間ではなく私の空腹の程度によって、昼食を食べるか決めるのである。そのため、食べる時間も量もバラバラであり、もちろん食べない日もある。そしてその昼食を持っていくかどうかは朝の気分である。

 

 ある日、15時頃に私のお腹は「ぐぅ」と弱々しい音を立てた。しかし、私はその音を鎮めるための昼食を持ち合わせていなかった。このとき、いつもなら私は気合と根性で我慢してしまうことが多いが、その後の知的活動に絶えうるだけの集中力を持ち合わせていないと判断したために、「しかたない」と私は財布を片手に学校の近くにあるコンビニ(セブンイレブン)へ行った。

 

 余談であるが、セブンイレブンといえば、私は1年前ぐらいによく通っていた。朝早く起きられたときにだけセブンイレブンへ行き、「石窯くるみパン」を毎回買っていた。このパンとの出会いは、私にくるみパンの尊さを認識させる契機となった。換言すれば、以前の私はくるみパンを過小評価していたのである。私は、くるみパンのことを「パンにくるみが入っているだけのもの。代わり映えしない」と思っていた。だが、それは違った。そこには、不要なものを入れない簡素さゆえの洗練さがあったのである。その感動は別のパンにも波及し、あんパン、メロンパンなどの伝統的なパンに対する私の評価が上がった。

 

 セブンイレブンに着くと、私はいつものように「石窯くるみパン」を探した。しかし、在庫がなかったせいか、見つからなかった。ここでもまた私は「しかたない」と150円ぐらいの手頃のパンを探すことにしたが、あまり好みのものがなかった。そこで、私は上記の写真のパンが目に入った。タカキベーカリー。このメーカーは、「石窯くるみパン」を作っているところだ。それを知っていた私は、新たな出会いを求めてこのパンを買うことにした。ただ、値段がいくらなのかわからなかった。置いてある場所にも、パンの袋にもそれらしきものがなかったのだ(後から確認したら袋に書いてありました。ごめんなさい)。そこで、私は「このパンはだいたい200円から300円だろう」と思案し、購入することにした。

 

 レジへ持っていくと、店員さんがパンのバーコードを読み取ろうとする。そのとき私は値段が表示される画面を真剣な面持ちで見ていた。次の瞬間、値段が表示され私は焦った。500円弱だったのである。思ったより高かった。私は内なる気持ちを表情に出さないようにし、500円玉を店員に渡した。そしてその狼狽した気持ちを隠すかのように、そそくさとコンビニを後にした。コンビニからの帰り道、私は興奮した気持ちを鎮静しつつ「しかたない。ブログに書こう」と独り言をつぶやいた。

すごい人リスト

人前で上手に話す人、話が分かりやすい人、自分から話しかける人、寛容な人、明るい人、文章が上手な人、感情を表出するのが上手な人、鋭い指摘をする人、論理的な人、自分の間違いを認める人、言い訳しない人、声が良い人、平等に接する人、悪口をいわない人、清潔感がある人、大変な思いをしてきた人、人を頼りにできる人、人とすぐに仲良くなれる人、

 

 

まだまだたくさんあるから追加していく。これらは、日々過ごす中で「すごいなあ」と私が感心させられた属性だよ。つまり私の独断で恣意的になるね。人のいいところを探すときに使えたらいいなと思ったからリストアップした。

<読書>根拠を安定させるために経験的事実を示す/『議論のレッスン』

本記事の要約

  『議論のレッスン』を読んだ。この本は、前回の記事において紹介した『論理表現のレッスン』を読んだときに、ついでに注文したものである。本書は、議論について具体例を示しながら説明するものであった。その中で私が気になったのは、主張に対して経験的事実を提示するという部分だ。そうすることで、議論が「なぜそう言えるのか」で永遠に続くことはなくなる。ところで、本書は私にとって濃厚だった。内容の整理が追いついていないのである。そのため、いずれ読み直すことにしたい。

 

 *

 

ついでに注文

議論のレッスン (生活人新書)

議論のレッスン (生活人新書)

 

  前回の記事で『論理表現のレッスン』について書いた。そのとき、同じ著者でより読まれていると思われる本を注文した。それが本書である。

 本書は、議論について具体例を示しながら説明するものであった。私は、本書の中で初めてトゥールミン・モデル(議論のモデル)を知った。

 以下において、私が気になった部分を取り上げる。

 

経験的事実に基づく主張

 議論は、「なぜそう言えるのか」と問い続ければ、永遠と続く。そこで、著者は、経験的事実に基づく主張をすることを提案している。

あるレベルで議論に決着をつけるために、根拠としてある程度の裏づけが提示できるものを用意し、それに基づく主張をすることを提案します。この「ある程度裏づけのある根拠」を、ここでは「経験的事実(データ)」と呼ぶことにします。

 経験的事実(データ)とは、「誰にでも確認できる対象、または事実」のことです。(p.105)

 つまり、主張が客観的な根拠に基づいていることによって、説得力の増加や議論の進展が生じるのだと私は思う。

 

濃厚

 本書は、私にとって濃厚だった。書かれている内容は難しくないのだが、内容の整理が追いつかないのだ。論拠が違った場合にどうすればよいのか、この場合これは根拠にあたるものなのか、などが分からなくて胸にもやもやが残る。

 疑問を解消するために、ほかの議論に関する本を少しずつ読んで勉強することにする。そして本書に関しても再度読み返したい。

<読書>「服の乱れは心の乱れ」は、くびき法/『日本語のレトリック―文章表現の技法』

本記事の要約

 『日本語のレトリック―文章表現の技法』を読んだ。ブログを始めてから後3か月ほどで1年が経つが、文章は上達していないかもしれない。そのため、文章に深みを与える技術を知りたいという動機から本書を選んだ。本書は、30のレトリックを実際の文章とともに紹介するものであった。その中で私が気になったのは、くびき法である。くびき法とは、「服の乱れは心の乱れ」のような同じ表現でその意味が異なるときに生じるものである。このくびき法のように、レトリックは、誰かに「うまい」と言われるような表現の中に隠れているのかもしれない。それを意識的に作り出せることが文章の上達だと思う。

 

 *

 

技術を知る

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

日本語のレトリック―文章表現の技法 (岩波ジュニア新書)

 

  ブログを始めてから後3か月ほどで1年が経つ。ふと後ろを振り返ると、ずいぶんと知らない間に長い道を歩いてきたなあと感慨を覚える。ブログを始めた頃と比べると、私の文章はどの程度上達したのだろうか。書くことには多少慣れたが、技術においてはほとんど進歩がないのかもしれない。そのような思いから、文章に深みを与える技術を知りたいと動機づけられて、本書を手に取った。

 本書は、30のレトリックを実際の文章とともに紹介するものであった。その中には、日常で知らない間に使っていたレトリックがたくさんあった。

 以下において、私が気になったものを1つ取り上げる。

 

くびき法

 著者によると、くびき法は、同じ表現でその意味が異なるとき生じるという。

九回の裏、同点、ツーアウト満塁、ツースリー。ふりかぶって投げた一球は、外角低めの直球――。のつもりが、手元が狂って打者にぶつけてしまった。このとき、「バッターも痛かったがピッチャーも痛かった」と言いたくなります。打者の痛みは肉体的ですが、投手の痛みは心理的です。同じ表現でその意味が異なるとき、くびき法が生じます。(p.43)

 くびき法の例として他にも、「スピーチとスカートは短いほどいい」や「服装の乱れは、心の乱れ」を挙げていた。

 

昔のクラスメート

 昔のクラスメートに、「服の乱れは心の乱れ」とよく言う人がいた。当時私は、紋切型の言葉として特に何も思っていなかった。しかし、今思えば、それはくびき法だったのである。その人は、知らぬ間にレトリックを用いていたのだ。

 このように、私たちは知らない間にレトリックの技術を用いている。たとえば、それは、誰かに「(その表現は)うまい!」と言われるような表現の中に隠れているのかもしれない。それを意識的に作り出せること、それが文章の上達であろう。