電子的ヒトリゴト

心理学が好きなゲイのブログ

研究したいテーマを決めた

 先日、研究したいテーマに関して大きな枠組みを定めた。それは、動機づけである。英語でいえばモチベーション。日常でいうところの、やる気とは少し違うが、それに近い。動機づけの中でも、特に自律性に興味がある。しかし、何をどうするかは詳細には決まっていない。これから書籍や論文を読んで決めるつもりだ。

 

 実は、突然そのテーマが天から降りてきたのではなく、大学に入ってから少しずつ温めておいたのだ。具体的には、『人を伸ばす力』や『無気力の心理学』、『学ぶ意欲の心理学』などを読んだ。大学に入ってから少しずつ、ほんの少しずつだけど、動機づけに関する本を読んだ。そのたびに、私の心が喜んでいるのを感じた。

 

 なぜ、私はそのテーマに対して一過性ではない興味を持っているのか。それは、瓶からコルクがポンって抜けるように気持ち良く言葉ではまだ表せていないし、ましてや一言ではいえない。私の中でそのテーマに対する興味が、掴みどころのない霧のように漂っている。でも、時間が経てば掴めるかもしれないと思えるぐらいに確実にそこには存在する。

 

 それを無理に固定的なものとして文字にしてしまえば、自分の漠然とした興味と明確な文字との間に乖離が生じる。もっともらしい理由は、面接の中で開陳される事実とかけ離れた誇大な、それでいて頼もしい被面接者の発言に似ている。私がそんな傲岸なことを言うのは忌憚されるが、それではちょっぴり寂しいのだ。

 

 と、まあ、こんなことを言ってきているけど、本当は一言でいうと、私は大学生になってから自律的になったからです(それまでは、他律的で自分が人生の主体であるという感覚が薄かったように思います。確実に今の方が人生は楽しいです。そう実感したので、自律性が大切だと思ったのです)。

 

 

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

人を伸ばす力―内発と自律のすすめ

 

 

無気力の心理学―やりがいの条件 (中公新書 (599))

無気力の心理学―やりがいの条件 (中公新書 (599))

 

 

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

学ぶ意欲の心理学 (PHP新書)

 

 

母にカムアウトした日のこと

 先日、僕は母に自分が同性愛者であることをカムアウトした。それは、僕の人生の中でもたくさんの勇気が必要な行為であった。本当は、このことに関しては「大学を卒業するまでには”いつか”話そう」という考えがぼんやりとあっただけだったんだけど、急に「今日話そう」って思いが浮かんできた。だから、予定がだいぶ早まってしまったが、僕は話す決心をした。

 

 ちょうどその日は成人の日で、母と一緒にお酒を飲んでいた。そしてお酒を飲み終わったあとに、僕は電気を消して間接照明をつけながら、「話したいことがある」と静かに母に言った。母は怪訝そうな顔をして僕の言葉を待ってくれた。次に「実は・・・」と僕は言ったけれど、僕は30分以上何も言葉を発せずにいたと思う。喉もとに言葉がつまっている感覚が続いたのだ。そのようにして時間が過ぎていき、そろそろ寝なければならないと思ったとき、僕はぼそっと言い終えた。その後、詳しい事情を話した。話している途中にお互いが少し涙が出たが、話し合いが終わったあとには僕はすっきりした気分になっていた。話して良かったと思った。

 

 最初は、自分が同性愛者であることが嫌だった。セクシャルマイノリティに対する周囲のやや侮蔑した眼差しが内在化されてしまっていたのである。つまり、私が同性愛者だとはっきり自覚したのは高校生のときであるが、それまでの間にセクシャルマイノリティの人々に対する態度や友達間での会話を通して、「セクシャルマイノリティは変わっている」という考えが僕の中に少なからず育ってしまっていたのである。

 

 しかし、その問題に向き合っていくうちに、徐々に受け入れられるようになってきた。自分が当事者であることが、セクシャリティについて真剣に考える機会になったし、多様性に対する寛容さを与えてくれたと思えるようになってきたのだ。ただ、正直にいうと、今も”ゲイ”という名称でレッテルを張られることに違和感を少し覚える(同性愛者というレッテルは違和感がない)。それもおそらく蔑称のような感覚を内在化させた結果だろう。しかし、ゲイという名称は蔑称ではないため、今後は少しずつ受け入れていくことにする。

 

 LGBTに関する情報を集めてて気づいたのは、セクシャリティのあり方は実に人それぞれであるということだ。セクシャリティには、白黒はっきりしないグレーの部分が多く、しかもその濃淡さは人によって違う。これは異性愛者でも当てはまることだ。たとえば、1人の人の中には男らしさと女らしさの両方があるのが普通である。そしてその割合はまさにグレーの濃淡のように人によってそれぞれなのだ。このことから同じ枠組みの中にいる人々に関しても個性ともいえる多様性を含んでいるのがわかる。だから僕としてはその人の個性を大切にしたいなと思うと同時に、このような考える機会を与えてくれたことに感謝したい。

 

先生と親のための LGBTガイド: もしあなたがカミングアウトされたなら

先生と親のための LGBTガイド: もしあなたがカミングアウトされたなら

 

 

緊張は誰でもする

 緊張は誰でもする。そう心から実感し始めたのは、ほんの1、2年前だ。逆にいえば、それまでは僕だけが緊張するものだと思っていた。昔から他の人と比べると、僕は緊張しやすかったように思う。だからこそ、他人を見ては、「緊張しないなんてすごいな」と思ってたし、「自分は緊張してやりたいことができなくてダメだな」とも思った。でも、本当は違ったのだ。本当は、多かれ少なかれ周りの人も僕と同様に自分の緊張と葛藤しているのだ。僕はそれに大学生になるまで気づかなかった。

 

 それに気づいてから僕の意識は、ほんの少し変わった。僕は緊張を排除しようとすることから、緊張と上手く付き合っていく方法を模索し始めたのだ。そのおかげで、「自分は緊張するなんてダメなやつだ」と思わなくなったし、僕が緊張する場面において、堂々と振る舞っている人を見ると、尊敬できるようになった。

 

 そして、緊張は案外良いやつなのかもしれないとも感じるようになった。緊張、それは自分が外界に対して無防備であるがゆえに警戒していることを意味していると思う。だから、緊張している状態の中で、自分の周囲にいる人たちを敵だと見なさず、勇気を持って味方だと思えば、今まで気づかなかった人々の優しさに触れることができて、自分でも驚くほどに優しくなれるんだ。「ああ。こんな緊張している自分に対しても優しくしてくれるなんてみんな良い人だなあ」と人々の温かみが心に染みるのだ。だから、このような体験を提供してくれる緊張は、案外良いやつなのかもしれない*1

笑顔のトレーニング

 僕が素敵だと思う人たちはみんな表情が豊かだ。純粋な子供のように様々な感情を表現する。その生き生きとした姿は愛らしく、見ているほうまで活力が伝播する。そのときに感じた感情をすべて表現することによって、まさに人生を十全に楽しんでいる印象を受ける。

 

 一方で、僕は感情表現をするのがあまり得意ではない。たとえば、写真に写るときにその違いは表れる。最近気づいたことではあるが、感情表現が得意な人は、写真において様々な表情を見せる中で、基本の表情は笑顔である。しかも、その笑顔は上の歯をしっかり見せたものである。僕といえば、真顔でピース。内心では口を閉じながらも少し口角をあげようと頑張ってはいる。上の歯をしっかり見せた笑顔なんて、偶発的にしか作られたことはなかった。

 

 そこで、僕は笑顔のトレーニングをしてみた。上の歯を見せて思いっきり笑顔になる。そして、その表情を数十秒キープする。表情筋がピクピクしてくる。しかも完全に笑顔が引きつっている。目が笑っていない。表情を崩すと、表情筋がどっと疲れる。そのとき、いままで表情筋をあまり使ってこなかったのだな、思った。それと同時に嘘の笑顔でもいると、自然と楽しくなってくる。ちょっぴり人生を十全に生きるということがわかった気がする。フリをすれば、本物になるらしいし*1、これから毎日、笑顔のトレーニングを続けてみる(^^)

2017年の抱負

 あけましておめでとう! 1月1日だね。新しい1年の始まりだ。1年という周期は本当に便利だと感じるよ。気分が一新するし、昨年までの自分と少しベクトルを変えて新しいことにチャレンジしようって気持ちになる。ということで、いま現在の私が思う、2017年の進みたい方向性を書いておこう。そして年末に、それをもとに1年の振り返りをしようと思う。毎年の恒例にしたいな。

 

やりたいこと

  • 字をきれいにする
     以前にブログでペン字をやると言っていたけれど、少しやって今は一時中止している。心機一転、もう1度再開するぞー!

  • 英検準1級を受ける
     英語は、触れない日もあるけれど、生活の一部になっている感じはある。せっかく英語を勉強しているから、頑張って英検準1級を受けようかな。

  • 極力、本を買わない
     読書をやめるわけではない。本を買わないようにするのだ。いままで気になる本があったらアマゾンで注文することが多かった。しかし、今年は買わないようにする。図書館をフル活用する!

  • 絵を練習する
     絵もペン字と同様、今は一時中止している。継続って難しい! そんな難しさを感じながら、せっかく年が新しくなったので、意気込んでいく。さて、その決心は、三日坊主にならないかな?

  • ブログの更新頻度を上げる
     私もそろそろPVが欲しくなってきた。実利的な目標だ。ユーチューブや他のブログを見てきて、PVの点で継続は大切だと思ったよ。私は特に有益な情報を配信するというわけではなく、日記のようなものだけど、とりあえず継続してみて、その効果のほどを実感してみたい。

  • 興味にそってなるべく体系的に勉強をする
     昨年は、読書の形態は乱読に近かった。とりえあずインターネットで良書を調べて、それを読む、というようなパターンが多かったと思う。今年は、なるべく興味のある分野を体系的に読んで、その分野の知識を保有したい。

  • 人間関係を大切にする
     昨年までのことを考えると、私は人と積極的に関わろうとしていなかったように思う。しかし、私も20歳になり、人間的な寛容さが身についてきたように感じる。だから、人とコミュニケーションを取れるだけの心の余裕が少しできてきたんだ。さらに人間関係の大切さも感じ始めてきたので、人間関係を大切にする。

 

 やりたいこととしてリストを挙げたけれど、少し抽象的なものがいくつかあるね。私は気移りする性格なので、せっかくリストを挙げてもまったく変わってしまうかもしれない! だから、あまり具体的すぎないようにしてみた。以上。

 

追記

 今年のやりたいことが少し増えた。そのため、追記として書いていく。しかし、継続的にこの記事を編集すると、年末に振り返ったときに、やりたいこととやったことがあまり誤差のない結果になってしまって面白味がなくなるため、もう少し経ったら、やりたいことが増えても追記として書かないようにする。

 

  • 清潔感を獲得する(追記:1/2)
     服装などをはじめとする個人のライフスタイルは、その人の自己表現だ。そして気持ちよく自己表現できるよう、清潔感の獲得を目指す。「服装の乱れは、心の乱れ」である。

心の余裕ゲージ

 心の余裕が可視化できたら、どんなに便利だろう。「あの怒っている人は余裕がないんだな」とか「いま自分が他人に対して寛容になれないのは余裕のせいだ」とかが客観的に判断できるようになる。そうすれば、「あの人の怒りの原因は、自分の言動じゃなかったんだな」とか「自分はいま余裕がないから少し休もう」とかが理解できるようになる。

 

 心の余裕がないと、人は狭量になる。たとえば、逆を考えてみよう。宝くじで大金を手にしたとき。好きな人に告白して受け入れてもらったとき。それらは、心の余裕があるときだ。そのとき人はちょっとの不幸など気にならない。つまり自分や他人に対して寛容になれる。しかし、心の余裕がないときはまさにその逆だ。些細なことに不寛容になってしまう。

 

 同じ人に対して同じことをしたとしても、その人は怒るときと怒らないときがある。その違いは何か。私は、心の余裕があるかどうかだと思う。怒ったときは、たまたま直前にその人の大切な物がなくなってしまっていたのかもしれない。怒らなかったときは、たまたま最近良いことがあったのかもしれない。

 

 もちろん人の行動は、その人の性格に起因することは多大にあるだろう。しかし、性格ではなく、心の余裕にすべてを求めれば、その人と切り離された何かのせいにできるのだ。つまり、何かをして怒られたときに、「あの人の性格はあまり好きではない」とその人を固定的に見てしまうのではなく、「あの人はいまは余裕がなかったんだな」とその人を流動的に見られる。そうすることで、性格という人の本質的な部分を嫌いにならずに、他人に対応できる。

 

 冒頭で「心の余裕が可視化できたら、どんなに便利だろう」と述べた。しかし、実は可視化されていないからこそ、心の余裕のせいにできる可能性が広がるのだ。だからみんな心の余裕のせいにしよう。そして、自分の心の余裕がないと感じたら、ゆっくり休もう。他人の心の余裕がないと感じたら、そっとしておこう。

最近読んだ本(1)

 今年も終わりますね。時間としてはあっという間に感じるけれど、考えてみたらこの1年いろいろあったなと思います。漢検を受けてみたり、心理学検定を受けてみたり。そしてブログを始めてみたりしました。もう少しでブログ歴1年になるけれど、まだまだ体裁がブレブレです。そのため、昔の記事を見返したとき、恥ずかしくなっては非公開にしてます。来年はそうならないといいんだけどね! さて、最近読んだ本です。

 

経済の考え方がわかる本 (岩波ジュニア新書)

経済の考え方がわかる本 (岩波ジュニア新書)

 

 経済の用語が日常の出来事を例に説明してあって、非常に平易な本でした。その中でも機会費用の考え方が面白かったです。たとえば、何もせずに怠けていたとしたら、本来その怠けていた時間分を働いて得られる収入を失っていることになります。つまり、何もせずに怠けていたとしたら、プラスマイナスゼロではなくて、その時間でできたであろうことを失っていることになるということです。勉強もそうですね・・・・・・。耳が痛い。

 

哲学思考トレーニング (ちくま新書)

哲学思考トレーニング (ちくま新書)

 

  本書は哲学的要素を含めたクリティカルシンキングについて書かれたものでした。その中で、クリティカルシンキングをするときの重要な態度が印象に残りました。それは、「間違えを認めて改める」という態度です(p.236)。そしてそれを達成するために「自分の意見に感情移入しすぎないこと」と「自分の意見に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではないこと」を意識することを挙げていました。これができたらかっこいいと思います。

 

 本書は、論理的な議論の技術について説明するものでした。内容は、ベーシックなもので、この本があれば適切な議論ができるようになると思います。ただ、本書は議論のためのモデルを提示していて、それがトゥールミンモデルと違って著者オリジナルのモデルと言っていました。私がトゥールミンモデルに精通していないため、なぜオリジナルでなければいけないのか、それはどのような効果の違いをもたらすのかがいまいちよく理解できませんでした。議論の技術について、のちのち勉強していきたいと思います。

 

文章は接続詞で決まる (光文社新書)

文章は接続詞で決まる (光文社新書)

 

  本書は、接続詞について例文を交えながら解説するものでした。私はこの手の本が好きでよく読むのですが、本書は個々の接続詞に対する微妙な違いが書かれていて良かったです。たとえば、「しかし」と「だが」は役割としては逆接で同じですが、ニュアンスの違いがあると言っていました。私としては、逆接といったら「しかし」が堅実だと思っていたので、そればかり使っていました。その結果、一本調子になりがちだったので、次回から「だが」も使っていきたいと思います。その他の接続詞についても、バラエティ豊かであり、単調な接続詞の使用を防ぐためのヒントがありました。

 

「超」文章法 (中公新書)

「超」文章法 (中公新書)

 

  本書は、文章の書き方について書かれたものでした。エッセイのように文章に対する著者の考え方が非常に反映されているように感じました。その中でも私が共感したポイントは、自分が伝えたいことが一言で言えるかどうかという部分です。それを自分が把握せずにどうして人に言いたいことを伝達できるのでしょうか。これは基本的なことでありながら、忘れがちなことだと思います。