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電子的ヒトリゴト

心理学部の大学生ブログ

呼称

大学生の日記

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 私は人の名前を呼ぶことが苦手だ。なぜなら、名前の呼び方でその人との距離感や関係性が露呈してしまうからである。たとえば、私がある人のことを「〇〇(あだ名)」と呼んだとする。当然、周囲の人たちはその人と私の関係を親しいものであると認識する。もしそこに意外性が入り込めば、周囲の私に対するイメージが変化されるに違いない。自己開示をすることによって否定的なイメージが作り上げられるとすると、私の自我がもたない。そのため、私はなるたけ「〇〇さん」や「〇〇くん」と呼ぶようにしている。

 

 そのように努めている私にとって、より恥ずかしい場面がある。ある人の友達が私にある人のことを呼ぶときである。具体的には、私がある人の友達と会話をしているとしよう。そのときに、ある人の友達が私に向かって「〇〇(あだ名)がね」と言う。私はその呼称が初耳だったとき、確認する意味を込めて聞き返さないといけない。ここで私は考える。相手は私に通じると思って使ったのであろうか。それとも初めて使うことを承知しながら使ったのであろうか、と。私は相手の気持ちが理解できずに全身が痒くなるのである。

 

 また、遠い存在に対する呼称の使い方にも私は苦しむ。歴史上の人物であれば、気兼ねなく呼び捨てを行える。しかし、芸能人が難しい。私はこのことを考えるようになってから、身近な人たちと同様に「〇〇さん」などで統一するよう努めているが、作家や特定の芸能人などに対してはどうしても違和感を感じてしまう。そして、そのことを意識しながら過ごしていると、他人が使う呼称についても気にしてしまう。たとえば、普段礼儀正しい人が芸能人を呼び捨てしていると多少の違和感を感じる。

 

 ある番組で芸能人が一般人をモニターを通して観察しているときに、一般人が芸能人を呼び捨てしているのを見て、芸能人はそれについて控え目に言及していたのを覚えている。私はどちらの気持ちも分かる。一般人からすると芸能人は歴史上の人物のような遠い存在であり、芸能人からすると一般人が想像しているより遠い存在だと思っていないのである。

 

 ここまで呼称の難しさについて述べてきたが、裏を返せばメリットにもなりえる。難しさゆえに、誰もが無意識的にその扱いを得意とはしない。すなわち、本音が出てしまうのである。その本音を上手に拾うことで何かの役に立つに違いない。

 

 私はその難しさを感じながら今日も生きていく。