電子的ヒトリゴト

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性的指向と性的嗜好

 性的指向と性的嗜好。読み方はどちらとも”セイテキシコウ”と読みます。だから、混同されることが多いですのですが、「その特徴的な違いとは何か」を考えると、これらを区別することは簡単な問題ではないことがわかります。ここで、まず一般的な説明をするために、ウィキペディアから定義を引っ張ってきます。

性的指向(せいてきしこう)(英: Sexual Orientation)は、いずれの性別を恋愛や性愛の対象とするかをいう、人間の根本的な性傾向のことを指し、性指向ともいう。

 性的嗜好(せいてきしこう、英語: sexual preference)とは、人間の性的行動において、対象や目的について、その人固有の特徴のある方向性や様式を意味する。

 つまり、同性愛や異性愛、両性愛などセクシュアルマイノリティ(以下セクマイとする)として取り上げられるとき、前者の性的指向の問題となっています。一方で、性嗜好は、フェティシズムなどの性的な好みを言います。同性愛の権利を推進するとき、「同性愛は性的指向で、単なる好みである性的嗜好とは違うんだ。自分で決められないのだから、差別はよくない」という論法を目にします。

 ここで考えるべきことは、2つあると思います。1つ目は、性的指向と性的嗜好の特徴的な違いは何かということです。上述した論法でいくと、性的指向は選べず、性的嗜好は選べるということになります。すなわち、その違いとは、選択が可能かどうかになります。実はこれはよくわからないのです。たとえば、嗜好性がどのように形成されたのかを考えると、その人が選択したものではないとわかります。性的指向にしても、産まれてから、ずっと変わらないというわけではなく、変わる可能性があると考えられています。これは、嗜好性の形成と構造的に同じです。また、どの程度、嗜好に固執するかどうかに関しても、人それぞれですから性的嗜好は柔軟であると言えません。このことから、性的指向と性的嗜好の違いを選択が可能かどうかに求めることの曖昧さがわかるでしょう。

 このことに関して、暫定的に僕の考えを述べます。それは、誤解を恐れずに言えば、根本的かどうかです。これは、性的指向は性的嗜好より根本的であるということです。ただ、根本的だからといって価値的に優れているというわけでなく、構造的なことを指しています。話を進めますと、性的嗜好について語るとき、暗黙のうちに性的指向を前提としているのではないでしょうか。たとえば、ある人は、サディズムとマゾヒズム(SM)が好きだとしましょう。そして、その人がSMについて語るとき、性的指向、すなわちどの性別に性傾向が向くかが限定されると思います。たとえ、SMプレイができれば誰でもよいという人がいるとしても、それは、どんな性別に対しても性傾向が向くという性的指向が暗に含まれているのではないでしょうか。しかし、その逆はない。すなわち、性的指向について語るとき、性的嗜好は暗黙のうちに前提とされないのです。まとめると、性的指向のうえに性的嗜好があり、そのような意味で、根本的かどうかが特徴的な違いとして挙げられると僕は考えます。

  次に、2つ目は、なぜ性的指向の権利だけが推進されているのかということです。上述した論法では、性的指向は選択できないのだから、差別してはならないと言っています。しかし、それがおかしいのは明らかでしょう。選択できないのだから差別してはいけないと言うことは、逆に、選択できるものは差別してもよいと言っていることと同義になります。ここでは、一旦、性的指向と性的嗜好の特徴的な違いを根本的かどうかに設定します。これに関しても、根本的だから差別してはならず、非根本的だから差別してもよいということにはなりません。それなのに、なぜ性的指向の権利だけが推進されているのでしょうか。

 再度、僕の考えを暫定的に述べます。それは、性的指向の平等性を確保するためだと思います。社会はヘテロセクシズム(異性愛主義)であり、構造的に根本的である性的指向が不平等になっています。また、それをもとに展開される様々な権利が阻害されています。だから、その不平等性をなくすために、”順番的に”性的指向の権利を推進しているのだと考えます。

 以上において2つの論点について述べてきました。依然として、知識不足のために論が弱いと感じます。この問題は複雑なので、暫定的にこれぐらいしか述べられないです。追々また考えます。