電子的ヒトリゴト

ゲイのブログ。主に読書、心理学、SOGI、日記など

自分の相対性について

絶対的な自分になりたかった

 ずっと僕は、絶対的な自分を確立したかった。ここでいう絶対的な自分は何を意味するか。それは、何かに依らない自分のことである。つまり、依存的な自分から脱し、自分の絶対性を確保することで、何があっても大丈夫という安心を得たかったのである。そのために色々なことにチャレンジした。たとえば、近くに理容師がいなかったらどうするのか、洗濯機がなかったら(壊れてしまったら)どうするのか、などの問題に答えるために、それらをすべて独力でしようと努めた。

 

自分は相対的でしかありえない

 しかし、どこまでいっても依存的な自分から脱するのは不可能だった。考えてみればあたりまえの話である*1。自分で髪を切るにしても、その切るための道具はどうするのか? さらに広げれば、絶対的になりたいという考えを形成したのは環境である。その時点で、自分は環境に依存しているといえる。したがって、自分は相対的でしかありえないのだ。つまり、家庭・文化・時代などの環境が変われば自分というのはまったく別物になってしまうし、ある要因を統制してしまえば、それは自分ではなくなってしまう。また、今ある環境の中で育ってきて、今いる自分というのは、必然的ではない。たまたま、その環境で育ち、今の自分であるのであって、そこに必然的な理由は何もないのだ。自分は偶発的な産物であるといえる。

 

無根拠の中で希望を持つ

 自分の存在に理由や根拠がなかったとしても落ち込むことはない。むしろそれがデフォルトであると考えて、その中で希望を持とう。すなわち、無根拠の中の希望という二重構造で生きるのである。自分が無根拠であるということから、ほかのことも無根拠であると気づく。今まで自分を縛り付けていたルールというのも実は無根拠なのだ。だから、そこから自由になろう。自分なりの目標を持って、しかもそれは絶対的なものでなく、相対的なものとして楽しく生きよう。ただ、他人に迷惑をかけると、自分に迷惑が返ってきて、楽しくなくなってしまうので、それは自分のためにやめましょう。

*1:仏教でいう諸法無我のような話?(詳しくは知りませんが・・・)